souta-tokuniのブログ

日々の研究のレポートや論考たまに日常です。(。•̀ᴗ-)✧

信仰の普遍性と不可謬性及び教会論についての論考のアブストラクト(レポート?)

f:id:souta-tokuni:20210609093238j:plainf:id:souta-tokuni:20210608191710j:plainf:id:souta-tokuni:20210608191701j:plainf:id:souta-tokuni:20210608191647j:plainパラダイムシフトと時代転換の度に人類は進歩と退歩を繰り返して来ました。パラダイム転換を通して文化や伝統、思想は連続している。つまり『信仰』は別の信仰に転換することはなく常に連続性を保っていることを裏付けすることが出来ます。このことを原始教会時代、教父時代や中世カトリック時代、プロテスタント改革や近代啓蒙主義、技術と産業革命、現代の民主主義、教会史のパラダイム転換の分析を通して未来の教会の姿を含めて教会論を論考していきます。

少数者の排除や性別・人種差別、権力の濫用やヒエラルキー(階級制)、伝統主義的な狭過ぎる排除的な教義学など、キリスト教の本質では無いあらゆる非本質(悪徳)にも関わらず、個々人と信仰共同体の具体的な生活である人間の連帯、共同体、神との関係と同様である、啓示されたイエス・キリストの方向付け、規範、及び生活モデルは隠させることなく、極めて実践的な仕方でされたナザレ人の精神への追従は隠蔽されたり消し去さることは出来ませんでした。

マーティン・ルーサー・キングマザー・テレサなどの高名な人物も無名の人々の代表に過ぎません。無名の人々の信仰運動もナザレ出身の1人の男の価値、規範、態度に向けられています。彼から学んだ同じ人々が聖であり、神の前の1人の貧者、絶対に暴力を用いない人物、正義を求めて飢え乾く人物、慈悲深い人物であり、平和を構築し、正義のために迫害される人物です。彼から学んだ人は思いやることや分かち合うこと、与えることができることと罪を悔いること、寛大さと放棄を行使することと支援を与えることを学んだ人です。

キリストに向かい彼から力を受け、最高の価値、無条件の規範、最深の動機付け、最高の理想の人生を人は生きられる。キリスト者はキリストへの信仰の最内奥から絶望や不安を克服出来ると確信して、「まったく異なるもの」への消えることのない情景に強化され、現代社会の不正義への訴えと抗議への基礎でもあります。

任意の個人に真理は委ねられることなく、全ての人々の総体としての教会として、新しい世代に創造的に正統性は信託されて活きていき、時代と空間の中で普遍性が崩壊して、変わりゆく時代や地域ごとの違いの中でも一貫して保たれる連続性の中で、保持されている信仰や信仰共同体として、全ての個人、個別の団体は全体的で普遍的なカトリック的な存在です。全教会の教え、伝統である福音へ立ち返り改革を実践することが人間には出来て、全ての個人は福音的でもあります。

キリスト教徒はあらゆる信仰共同体に置いていかなる過ちも誤りも犯さない、むしろあらゆる誤りや間違いにもかかわらず、信者の共同体がイエス・キリストにおける精神によって保持されている独特な種類の「不可謬性」に信頼を置いています。

これらの研究はまだ抽象的過ぎるのでより細かく分析、検証して、具体的にあらわしていく必要があります。更に現在はエコロジーなど倫理的資本主義も進んでいるので、これらの分析も必要です。特に教会の具体的な信仰である聖書の現代的な解釈を通して単純な形で未来の教会論を構築していく必要があります。

最後に使徒言行録でも報告されている。イエスの同時代人であり全民族に一目置かれた、ユダヤ教ファリサイ派の律法学者であるガマリエルの有名な勧告を紹介して筆を置きます。使徒の逮捕後にエルサレムの「最高評議会」でそのようなキリスト教徒について語られたであろうものであります。主体である全ての個人が体験した現実の中に必ず真実である真理があることを述べています。コミュニケーションを通して対話を大切にすることで共通善、すなわち真理に私たちは近づくことが必ず出来ます。

「そこで今、申し上げたい。あの者たちから手を引きなさい。放っておくがよい。あの計画や行動が人から出たものなら、自滅するだろうし、神から出たものなら、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれないのだ。」(使.5・38−39)

挨拶かねて哲学、神学簡単な紹介です。

f:id:souta-tokuni:20201020230820j:plain

始めまして、社会人として働きながら神学と哲学の研究をしています。

カトリック教会の信者で、教会では侍者や聖歌隊など典礼(礼拝)での奉仕や青年たちや職場でも信者、未信者問わずキリスト教について解説をしたりもしています。

主にブログでは私の忘備録もかねて神学や哲学についての学習のレポートでしたり、私なりの論考や、私の現況なりを発信していきたいと思いますのでよろしくお願いいたします<(_ _)>

 

 哲学や神学に関して厳密ではなくザックリとした説明ですが。哲学(philosophy)は知を愛すると言う意味で時代により定義なども変わってしまいます。私は現代社会などの考え方(信念や命題)が本当に正しいのか問を探して厳密に論証して行く様な学問だと思います。数学とも近い所があり論理学や集合の考え方はよく応用されます。人生に対する答えを導く事は出来ないと思いますが、新しい発想の原動力になるとは思います。

 

 神学(theology)は色々な宗教にもありますが、一般的にはキリスト教神学のことになります。哲学的な方法論が使われますが大きな違いがイエス・キリストへの信仰が前提になっていること、信仰の保持と神の存在を前提(定義)として展開していくのが哲学との違いです(聖トマス・アクィナスetc.)。

 

 神学の場合は使徒パウロの手紙の通り非常に実践的な側面が強く、聖書の釈義や分析、理解を助け、キリスト教の伝統を比較して批判者から守ること、教会の改革を助け、現代に必要とされること求められます。

神学者カール・バルトが「神の言葉の神学」を展開するその鍵である作品はカンタベリのアンセンムルスについて書かれた(知解を求める信仰)である。アセンムルスの«credo ut inteligam»はバルトの考えでは「私は、理解するために信じる」「信仰」が全てに先立つのであり、バルトによれば、すべてのキリスト者はそもそも最初から事柄(イエス・キリストの十字架や復活の使信など)へ向かって飛躍しなければならない。そして、まず信じる。それは、その後の信仰の「諸可能性」の究明においてこの信仰を理解するため。[1]

 

同年代にナチス全体主義に周囲が同調する中それに反対したこの考え方は現代でも必要で、他者の自由である尊厳も守りデジタル全体主義などの熱狂主義を防ぎ生きづらい社会しないためにも必要です。これは現代社会でも示唆に富んでいて熟考していくべきことです。神学、哲学両方ともですが学際にとんで多岐にわたり複雑ですが、挑戦的で大変おもしろい分野です。

 

次回は典礼秘跡について論考を執筆予定ですが、変わるかもしれません。私もまだまだ勉強中ですがこのように論考などを中心に取り上げたいと思いますので宜しくお願い致します。

引用文献

Hans Kǚng,(1994),Groβe christliche Denker,R.Piper GmbH & Co.KG,(ハンス・キュング 片山 寛(訳)(2014)、キリスト教思想の形成者たち 新教出版 )

 

[1] Hans Kǚng,(1994),Groβe christliche Denker,R.Piper GmbH & Co.KG,(ハンス・キュング 片山 寛(訳)(2014)、キリスト教思想の形成者たち 新教出版 pp315)