挨拶かねて哲学、神学簡単な紹介です。
始めまして、社会人として働きながら神学と哲学の研究をしています。
カトリック教会の信者で、教会では侍者や聖歌隊など典礼(礼拝)での奉仕や青年たちや職場でも信者、未信者問わずキリスト教について解説をしたりもしています。
主にブログでは私の忘備録もかねて神学や哲学についての学習のレポートでしたり、私なりの論考や、私の現況なりを発信していきたいと思いますのでよろしくお願いいたします<(_ _)>
哲学や神学に関して厳密ではなくザックリとした説明ですが。哲学(philosophy)は知を愛すると言う意味で時代により定義なども変わってしまいます。私は現代社会などの考え方(信念や命題)が本当に正しいのか問を探して厳密に論証して行く様な学問だと思います。数学とも近い所があり論理学や集合の考え方はよく応用されます。人生に対する答えを導く事は出来ないと思いますが、新しい発想の原動力になるとは思います。
神学(theology)は色々な宗教にもありますが、一般的にはキリスト教神学のことになります。哲学的な方法論が使われますが大きな違いがイエス・キリストへの信仰が前提になっていること、信仰の保持と神の存在を前提(定義)として展開していくのが哲学との違いです(聖トマス・アクィナスetc.)。
神学の場合は使徒パウロの手紙の通り非常に実践的な側面が強く、聖書の釈義や分析、理解を助け、キリスト教の伝統を比較して批判者から守ること、教会の改革を助け、現代に必要とされること求められます。
神学者のカール・バルトが「神の言葉の神学」を展開するその鍵である作品はカンタベリのアンセンムルスについて書かれた(知解を求める信仰)である。アセンムルスの«credo ut inteligam»はバルトの考えでは「私は、理解するために信じる」「信仰」が全てに先立つのであり、バルトによれば、すべてのキリスト者はそもそも最初から事柄(イエス・キリストの十字架や復活の使信など)へ向かって飛躍しなければならない。そして、まず信じる。それは、その後の信仰の「諸可能性」の究明においてこの信仰を理解するため。[1]
同年代にナチスの全体主義に周囲が同調する中それに反対したこの考え方は現代でも必要で、他者の自由である尊厳も守りデジタル全体主義などの熱狂主義を防ぎ生きづらい社会しないためにも必要です。これは現代社会でも示唆に富んでいて熟考していくべきことです。神学、哲学両方ともですが学際にとんで多岐にわたり複雑ですが、挑戦的で大変おもしろい分野です。
次回は典礼や秘跡について論考を執筆予定ですが、変わるかもしれません。私もまだまだ勉強中ですがこのように論考などを中心に取り上げたいと思いますので宜しくお願い致します。
引用文献
Hans Kǚng,(1994),Groβe christliche Denker,R.Piper GmbH & Co.KG,(ハンス・キュング 片山 寛(訳)(2014)、キリスト教思想の形成者たち 新教出版 )
[1] Hans Kǚng,(1994),Groβe christliche Denker,R.Piper GmbH & Co.KG,(ハンス・キュング 片山 寛(訳)(2014)、キリスト教思想の形成者たち 新教出版 pp315)